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雑記帳もといネタ帳。昼間~夜に気まぐれ更新。
腐的発言が多分に含まれております。閲覧はくれぐれも自己責任で。
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日本史の勉強だぜ。
見ても無駄に長いだけで面白くないぜ。
ちまちま更新されていくぜ。



たぶん。




>>ばくふとちょうてー

将軍と御家人は主従関係。ガイルク!ガイルk(ry

頼朝(将軍A)は主人として御家人に対し、おもに地頭(村長みたいなの?なんかちがう?土地の監視役みたいな)に任命することによって先祖伝来の所領(自分の土地ですよねー)を保証したり(本領安堵)、新たな所領を与えたりした(新恩給与)。

この御恩に対して御家人は、戦時には軍役を、平時(…普段?【´・ω・`】)には京都大番役や鎌倉番役などをつとめて、従者として奉公した。

要するに給料(土地)やるから仕事(見張りとか戦とか)やれ。って事か。
で、土地を与えられる事が御恩、仕事で返す事が奉公と。



>>北条氏の台頭

頼朝が土に還った後、若い頼家と実朝の時代になると、御家人中心の政治を求める動きが強まった。
それと共に有力な御家人同士で政治の主導権をめぐる激しい争いが続き(おい将軍ちゃんと面倒見ろ【´・ω・`】)、多くの御家人がこの世から去った。
その中で力をあげたのが、伊豆出身の北条氏である(さとこキタ!)。

1203年、頼朝の妻、北条政子の父である北条時政は、将軍の頼家を廃し、弟の実朝を立てて幕府の実権をにぎった。この時政の地位は執権と呼ばれて、子の義時に継承された。

なんだかうっとうしいのでかづたんの協力を得て図にしてみt




余 計 わ か ら な く な っ た \(^o^)/
思わず黒梨花ちゃまも出てきちゃうぜ!

よし、気をとりなおして。


>>かんじよめないの乱

みんなが反乱おこしていろいろはちゃめちゃになったので、朝廷を立て直そうということになった。
その中心にあったのがになる上皇である(嘘だッ!)。
上皇はばらばらになっていた皇室領の荘園(国の土地って事か?)を手中におさめるとともに、西面の武士をおいて軍事力の増強をはかったりまあいろいろしたよ。最後は幕府(東国武士)と戦って死んじゃうけど。

ちなみに上皇がウディられた事件を承久(しょうきゅう?/じょうきゅうだぜbyかづたん)の乱っていうらしいよ。


ちょっとめんどいからとばす←
かづたんがかんじよめないの乱についてまとめてくれたよありがとうさすが俺の嫁だぜ←





>>執権政治

かんじよめないの乱の後、幕府は3代執権北条泰時の指導のもとに、発展の時期をむかえた。 武士うはうは? 泰時は執権を保佐する連署をおいて北条氏一族中の有力者をこれにあて、ついで有力な御家人や政務にすぐれた11人を評定衆に選んで、執権・連署とともに幕府の政務の処理や裁判にあたらせた。

まとめ→執権(たぶんえらい)の泰時は北条氏のえらいやつを連署(俺の嫁/秘書)にして、御家人のえらいやつを評定衆(めんどい仕事するやつ)にした。

泰時が制定した法律っぽいものは御成敗式目という。



執権政治をうはうはにした泰時の政治は、孫の執権北条時頼に受け継がれた。
時頼はある評定のもとにあらたに引付をおいて引付衆を任命した。

※引付=御家人達の土地に関するモメゴトをなだめるいわゆるとても損な役割。





>>しゃかいのへんどう

農作の発展。
米だけを育てる形式から、空いた時期に麦を育てる二毛作へと変化。
つかいっぱなしで土地が痩せる為、肥料(草木や灰など)も普及。
鉄製の農具や牛馬を利用した農耕がひろがっていく。

また、耕作が楽になり余る時間は荏胡麻(灯油の原料)の栽培などに費やした。

それと同時に売るものも増え、定期市行商人(ロレンスキター!)も珍しくなくなった。
また、定期市だけでなく常設の小売店(見世棚。雑貨屋みたいな)もみられるようになる。

こうして客商売が増えていくと、商人達は互いの儲けの為に同業者の団体であるを結成するようになった。


その他にも問(運送屋)、貸上(アイフル)などの職業が生まれた。
貨幣はもっぱら中国から輸入される宋銭が利用され、金銭の輸送を手形で代用する為替も使われた。


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